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大伴家持の能登巡行とは


拡大したもの
奈良から越中にきた大伴家持
 万葉歌人の大伴家持(おおとものやかもち) は29歳の時、当時、都があった平城京(現在の奈良県)から越中国(えっちゅうのくに・現在の富山県と能登半島)へ、越中国の国守(こくしゅ)としてやってきました。

国守はどんな仕事?
 国守とは、現在の県知事に裁判長と警察署長、消防署長を兼ね合わせたその国の最高権力者でした。
 国守は、自分の国に住む人の健康や幸福をはかる義務をもっていました。そこで1年に1回、国中をまわって住む人々を視察したのです。

越中で病気をした家持は…。
 家持が越中に来た時は、すでに秋であったために、国中を見てまわることができませんでした。また、冬に病気をしたため、次の年の春も、まだ元気がなくてまわることができませんでした。家持が実際に越中国をまわったのは、越中にきて2度目の春のことでした。

当時の税金
 ところで家持の給料は、国から支給されるもの以外に、越中に住む人から集めた税金のうち、国に納めた後に余った分をボーナスとしてもらったのでした。
 当時の税金は、稲でおさめました。家持は春に農民に稲を貸し出し、秋になって貸した分の稲と利息分の稲を集めたのです。春に多くの稲を貸すことができればボーナスが増えるのです。ですから、当時の国司たちは国中をまわって、できる限り多くの人にたくさんの稲を貸す努力をしたのです。そのため、越中の4郡、射水郡(いみずぐん)・砺波郡(となみぐん)・婦負郡(めひぐん)・新川郡(にいかわぐん)の郡の役所を訪れて、その郡の人々と交流をもったのです。

どんなところを見てまわったの?
 当時の越中国は、今の富山県以外に、能登の4郡、羽咋郡(はくいぐん)・能登郡(のとぐん)・鳳至郡(ふげしぐん)・珠洲郡(すずぐん)も含まれていました。そのため家持は、はるばす珠洲まで出かけて行きました。

どんなルートで見てまわったの?
 能登はもともと越前国(えちぜんのくに)でした。ですから、越前国の国府から行きやすいように能登半島の外海側に道がありました。つまり、能登半島の富山湾側の道は整備されていなかったのです。
 そこで家持は、馬で当時の国庁(こくちょう・今の県庁のこと)があった伏木(ふしき)を出発した後、氷見(ひみ)から志雄(しお)に抜けて、羽咋(はくい)から七尾へと進んだのです。七尾から中島へ舟で渡り、陸路を輪島まで進み、さらに珠洲にたどりつきました。本来ならば、来た道を帰るべきなのですが、珠洲から伏木へは舟を使えば一日で帰れる距離だったのです。そこで朝一番に船出し、夜遅くに氷見の砂浜に帰りついたと考えられています。

どんな歌を残したの?
 家持は、その土地その土地で感動したことを歌を残しました。越中国を1周するには、数ヶ月かかったであろうと考えられていますが、家持の歌には感動したものしかなく、旅の苦労などは歌われていません。→どこでどんな歌を詠んだの?(詳しい地図)

“能登巡行追体験の旅”とは
 馬の代わりに車を使い、舟の代わりにヨットを使って家持の足跡をたどり、家持が見た風景を体験してみるという企画です。家持がふれた風景に、あなたもふれてみませんか。

発会式でのパワーポイントによる説明 → 記録・資料
リハーサル説明会で配布した万葉関連の資料 → 記録・資料
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