| 伏木港第2集 (24) | スライド一覧へ戻る | 前のページへ | 次のページへ |
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| 24) グラフが一途に下がっていく終戦前5・6年ごろの港の様子をききに先生と一緒に清恵さんのうちへ集まりました。清恵さんのうちのおじいさんは、ずっと長いこと港の仲仕をしておいでるのです。 みんなでおかしを食べながら、もう戦争がひどくなってメチャメチャになってあわてているお話をいくつもしてくださいました。 こんな話もありました。 「昭和19年ごろでしたかね。もう満州から大豆やコーリャンがひっきりなしにはいっていたころだった。戦争で仲仕の人が少ないので兵隊が荷役をしておったがねえ。兵隊たち、大豆やコーリャンの積み方も知らないくせに、仲仕をしかりつけてもうメチャメチャに大豆を積み上げさせてね、桟橋の上に見上げるように積んだと思ったら、その大豆が一度にどっと川の中にくずれおちて、あんた、あの深い港の中に大豆の島ができたことあったですわ。ヤア、もうおっかしいやら、なさけないやらで、まあメチャメチャなことをしていたもんですわ」 |
おじいさんは「まだ機雷空襲の最中仲仕の人はうちが心配だし、兵隊は夜通し働けゆうし、やあもう、ほんとにね」といって、おばあさんと顔を見合わせてわらっておられました。 おばあちゃんも「ほんまやねえ」といっておられました。 (註) 出入貨物の総トン数と汽船の総トン数の比較より、各年の積載状況を見よう。 積載率=(貨物トン数/汽船トン数)×100 (こんなことは正式に認められないかもしれないが)とすると、大正3年ごろは汽船は大体半分より少し多く積んだことを示し、昭和6年は満州事変その他の原因により急激に低下し、太平洋戦争の勝利期の昭和18年は実に船の積載力以上のものを積んでいたことがいえないだろうか。 このことと解説に掲げた子供の文とあわせて考えていただいたらと思う |