100年プロジェクトトップ NATトップ わたしたちの高岡


スライド
伏木港

第一部
川のある町と港

(草案)
伏木港製作委員会


スライド一覧へ



スライド伏木港を利用される方へ

昭和27年7月21日 パナマ船マーゴ号の入港をさきがけとして、伏木港にも外国船の姿がたびたびみられるようになりました。
そして、町の洋品店の店先にも見慣れない外国人の船員を見かけることもよくあるようになりました。
真っ赤なアロハシャツ、水色のズボン、見上げる様な外国船員が、ブクブクした和服の女性を抱くようにして闊歩していく。
それを見送る子供達のポカンとした顔。
私達はこれを見た時率直に「ああこれはまた私達の問題が一つ増えた」と思いました。
それから一ヶ月後、富裕な外国船員が町で菓子や煙草を撒くことをやりだしました。
貧しい日本の子供達は競ってそれをひらい合いました。
そしてどこまでもぞろぞろくっついて歩き、キャラメル一粒の取り合いからけんかを始め、鼻血を出して泣いている六年生をみた時、私達の胸はつまったのです。
でも写生にいった子供達の絵をニコニコしながら見まわり、わからぬ言葉で何か助言している外国の船員を見た時、思わずほほえむこともありました。
西陽のさしせまる放課後の職員室で、くるま座になった私達は幾度もこの問題を語り合うようになりました。
しかし私達は残念ながらこんな問題になると全くどうしていいかわからない、自分自身を知ってみじめな気持ちになりました。
私達日本人の中に誰でももっている舶来崇拝の主義と戦争中にたたきこまれた極端に排他的な考え、それにまた外国人に接する機会が全くなかった私達は子供達にどうやって教えてやったらいいかわからなくなってしまったのでした。
但この子供たちにこそ、こんな思いをさせてやりたくないという気持ちがせいいっぱいでした。
私達は、今日から子供達と一緒に、このことについてまじめに、率直に、考えていこうと思いました。
こういう話し合いの中からこのスライドの(第3巻にあたる部分のもの)を作り、それを使っていったらという方法が話し合われました。
以上のようなことを記録的にとどめておいてあとで静かに反すうし、みんなで考えあっていこうとしたのです。
そのためにこのような視覚的教材がどうしても必要に思われてきました。
まもなく、私達は単元伏木港を中心とする社会教育計画や、児童会活動の中でこの実践にとりかかりました。
そして、こうした実践を始めて、まず一つの反省をもつことをよぎなくされました。
はなはだ気分的ないい方になりますが”伏木港について学ぶ時には、その伏木港という対象に対しての愛情をもたせない社会科は、やっぱりだめなものだ”ということでした。
”大好きな港だ。私達の大切な大切な、港なんだ”という気持ちが子供達の心の中にしみじみといきわたっていなければ、その上に何を築こうとしても、それはむつかしことだと思ったのです。
そうしてまた、子供達の魂をそうした方向へ向けてやることこそ社会科というものかなあと思いました。
「キレイナオフネ!ミナトがスキダ!!」という素朴な子供達の感情を育ててやって、郷土の温かい理解と愛情を養ってやる。この気持ちの上にこそ、”なぜ外国船がはいるのか””外国船がはいってくれるので伏木はほんとに大助かりなのだぞ”という学習が子供達のはらわたにしみわたるように”ほんとにそうだな!”という気持ちをもたせることができるのではないかと思ったのです。
これがわかってはじめて、”そんならそんな大切な外国の船の人たちをどう考え、どう接するか”ということを子供達におしえることができると思うのでした。
郷土を愛する子供達は、そのまま、日本のことを憶う子供達になるのだと思います。子供達の魂によびかけるような温かい血の通った社会科を私達はやりたいと思いました。
そして子供達をどんどん深めてやる仕事に対する努力を行おうとしました。
”伏木港はいつどのような社会の中でどんな人達によってどういう道すじを辿って開港され、築港されたか””苦悩に満ちた近代日本の歩みの中で伏木はどのような役割を果たしてきたか”ということや”伏木港の成長とともにその目ざましい発展をしめした高伏工場地帯とのつながり”こうしたことがらが子供達の心におうじて丹念におしいてやらなければならなかったのです。
こうした雰囲気の中に、再びスライドを作ろうということが話し合われました。視聴覚的方法が子供達を育てるための力強い方法であることが私達にも漸くはっきりして来ました。
こうしてスライドの第一巻、河のある港の町(伏木港の歴史)第2巻日本海の港(伏木港の貿易)が計画されたのです。
それとおなじ時に、子供達の綴った作文というものが、社会科を押し進めるためになくてはならない道具であることも私達の間にはっきりとわかってきました。
子供達のかいてくれたものを丹念に読み子供達がどんなことを感じどんな状態にあるかを知り、書くことによって、一歩一歩たしかめながら進んでいくという方法をだいじにしました。
スライドのの脚本を子供達の書いた作文をもとにして構成していこうという試みはこうして出てきたのです。
今かいた様な形で社会科の歩みをつづける中で、私達はワシントンとリンカーンの祖国であり、フォスターやストウ夫人の母国であるアメリカを語り、ロビンソンクルーソーやロビンフッドのイギリスを話し、人数の文化を華々しく押し進めたエジプトやギリシャや中国の古代文化を語ってやりました。世界に住むすべての民族によってつくられた高い人間的なよろこびをわからせてやりたいと思いました。
そして排外的な民族主義や空想的な世界主義(フスモポリタニズム)におちいることのないことを戒めあいました。
社会科というものを通じて常に、背後に日本の祖国を感ずる子供達を育てたいと思ったのです。
そしてその貧しさの中にも静かな深い道徳的抵抗を示し国際人としての最高の接し方を身につけるようにねがいました。

伏木港について私たちが調査を開始した頃は、貿易(大きい意味で海運)というものが後で気づいた程巨大な複雑な姿をしたものであるということは考えておりませんでした。
最初私たちは伏木港についてのみ資料をあつめその検討を続けておりました。
しかしまもなくそれのみでは伏木港というものの姿の一部さえうかがい知ること出来ないことに気づき「高伏工業地帯」の成長とつながりをあわせ考え、富山県における工業化の過程、他の日本海諸港、太平洋諸港の統計書を共に検討する必要に迫られました。
殊に対岸貿易の調査に至って、満州、北鮮沿岸の諸港、また門司港、下関港等の統計書から、ようやくその対岸との貿易が伏木港におよぼした影響を知ることができました。
結局貿易というものが、それ一個のみ切りはなされて考えられるものでは決してなく、日本の産業、経済の状態、そして、それを動かしている国際情勢と、政治力、こういったものの背景に考察の目を向けなければ、港湾一つを考える時でさえその実態をつかみ難いということを、あらためて感じました。
港湾は海運というものの一つのターミナルであると考えられます。
伏木港一港の姿を知るためにもこのような観点から考察しなければならないことをはっきり知りました。
第二部の伏木港貿易の省察についての項でグラフや古い記録を使って、このような観点から今までの貿易をあらわしてみようとしましたが、一ぺん通りの解説書の説明では、むつかしいだろうと思いますので、利用される時の状態に応じ適当な話し合いの形で行われたらいいと思います。
ストリップスライドの形をとっておりますので、一コマ一コマを単独にゆっくり使うことはできないと思いますが、説明の不十分な所は伏木小学校発行の”伏木港の研究”を参照されるように望んでいます。
またそれからの一部抜すいした各巻末の資料集もご利用ください。

写真というものについて二つの性格が考えられます。
一つはいうまでもなく正確な説明的真実さということ、もう一つはそれによって見る人の心をゆりうごかす感動性、つまり芸術写真のようなあり方だと思います。
このスライドには意図的に後者に類する映画的な手法(第一部の後の部分、第三部の始の部分)を使いました。
その場合の説明は画面について、はなはだ説明的でない説明がくわわっていることがよくあります。
子供たちの理解に応じて説明書の説明からはなれて適当な解説をなされた方がいいと思います。
もともと一般のスライドの学習においても説明書が子供達との問答によってスライドを進めていくのが最もよい方法だと思います。
また、説明書の通りで一応すっと流される時には音楽などの伴奏をバックにいれたら、もっと映画的な効果がえられることと思います。

スライドの製作に当たってずいぶん多くの方々のお力ぞえをいただきました。
私たちの立場なり、見方なり、絞りだした幾つかの問題なりが果たして正しいものであるかということは港湾の業務に直接携わってない私たちとしては、とても不安に思いました。
そのため関係の方々と何度も何度も話し合いし”スライド伏木港シナリオ第一稿”としてプリントし、配布してまた検討していただきました。
そしてその時注意して下さったり、教えて下さったりしたことをもとに第二稿、第三稿をつくり同じように検討していきました。
それと共に私たちの研究と子供たちの学習、また港の情勢も変わってくるので、シナリオはだんだん姿を変えていきました。
少しずつ出来上がっていったフィルムは子供たちの学習に使われていくと同時にP、T、Aの牧野さんや、作文の会の和田さん宅や、海陸運送の福呂さん宅で試写してお話いただきました。
昭和二十九年二月八日に第三稿をもとにしたフィルム二巻、小学校のほとんど全部の先生たちに見ていただき、同じく二月十六日に第四稿のフィルムをP、T、Aや税関の方々に見ていただき、それを修正して三月上旬の五学年P、T、Aの社会科教室としてみていただきました。
以上のようにして、修正を加えていきましたが、まだまだ未完成の域を脱していないわけです。
P、T、Aの福呂さんの宅で一家八人そろって夜おそくまで港のことを話し合った次の朝”先生まだあの頃、こんな話もありましたよ、昨夜はわすれておってね”といって知らせにきてくださったことや撮影のために水上警備艇を何度も出動させてくださった警察の牧野さん、俯瞰さつえいのために、大クレーンを注文どおりに何度も操作して下さった国鉄の若林さん、外国貿易のめんどうな調査を何十度もおねがいした税関の郷田さん、第一部の主題”土砂堆積とたたかう伏木港”を確かめるために、何度もお世話ねがった伏木工事事務所の笹川さん、”先生、これみてください、昭和二十一年から昨年度までの工事費合計すると一オク円になりますよ、殆どもう川ほりばかりみたいなもんですね”という立証から私たちは子供に土砂と戦う伏木港の歴史を教えることができた。
また技術的な指導や写真をお貸し下さった富山産業教育館の春田先生、高岡産業教育館の沢田先生、高岡市の河口課、P、T、Aの大黒さん、河さん、田中さん、速水さん、御旅屋さん、土肥さん、スライドが完成すれば、とんでいっておみせしたい人たちばかりでした。
幸い、高岡市教育委員会と、富山県教職員組合のお力によって今度、こんなに多くの方々にみていただけるようになったので、うれしくてなりません。
この機会に、もう一回つくりなおしました。
でもまだとても”十分だ”とはいえません。
これからまた、なおしていきたいと思っております。
前おきがながくなりましたが一番たいせつなことは、このスライドが子供たちのために役立ってくれればいいのですが。
あるいは無用の長物になるかもしれないと思います。
そして、それだけが心配です。

協力
高岡市立伏木支所港湾課 若林誠一 福呂磯松
高岡市伏木港工事事務所 牧野誠義 御旅屋亮哉
高岡市海陸運送株式会社 笹川詳蔵 土肥洋順
高岡市伏木警察署 室井政雄 大黒信吾
高岡市伏木港湾交通株式会社 河 幸蔵 大黒幸男
高岡市伏木海員組合伏木支部 速水 彰
国鉄 マンモスクレーン詰所 田中正造 高木竹雄
高岡市伏木文化会 猪股正夫 二上健治
高岡市伏木図書館 網 順一 (其の他の方々)
パナマ船アンソニー乗組員 (他外国船員)



スライド一覧へ 

 NATトップ 100年プロジェクトトップ わたしたちの高岡 このページの冒頭